森本六爾関係の文献

浅田芳郎『考古学の殉教者』−森本六爾の人と学績−

柏書房 1982年

 六爾氏の弟子たちのなかでもっとも六爾氏に似ていたといわれる浅田芳郎氏が長年の宿願の末まとめられたもの。松本清張の『断碑』のなかにある浅田氏と六爾氏の別れた原因の真相を発表されている。全体として、藤森栄一『二粒の籾』を参考にしているが、考古学研究会当時の話には独自のものがある。序文を六爾氏の唯一の親友であった直良信夫氏が寄せている。このなかには浅田氏について次のように書かれている。

「浅田さんは森本君のお弟子さんとしては、古参格で森本に非常に私淑していた人である。言葉つきから身のこなし方、さてはその筆蹟まで師匠そっくりだった。だから時々まちがえて、かんちがいをしてしまったこともあった。」

このように、浅田氏は森本六爾の草創期の弟子としては非常に重要な方であるが、途中で袂を分かったことにより、永遠に「忘恩の輩」という汚名をさらし続けていかれる運命にある。しかし、本書を書いたことによってその汚名はそそがれたともいうべきであろう。

 

復刻版『考古学』

示人社(座右の書物の会) 1990年

『考古学研究』『考古学評論』『考古学』の三雑誌の完全覆刻版で現在は絶版となっているが、発売当初(500部限定)は26万円程度で売られていたらしいが、現在は神田の古本屋では50万円ぐらいの値がつけられている。

本復刻版は坪井良平氏が保管されていたものをもとに覆刻されたもので、非常に状態はよく、オリジナルの状態を再現している。六爾研究の基本文献である。

関東近辺の大学図書館では立正大学図書館(大崎)に所蔵されている。 

 

高橋 徹『明石原人の発見』聞き書き・直良信夫伝

朝日新聞社 1977年

本書は朝日新聞の記者の高橋徹氏が直良信夫氏から聞き書きという形で出版された伝記である。このなかに、東京考古学会の会員であり、無二の親友であった直良氏と六爾氏の交流の様子が詳しく記されているので、以下順を追って紹介する。

直良信夫と森本六爾の交流のエピソード

「学歴のない私(引用者注直良氏)には、常に負い目があり、心を許して話し合えるのは、森本ぐらいのものでした。よくけんかもしましたが、すぐ仲直りした。いくらけんかはしても、二人の仲が決定的にならなかったのは、私が生物や動物という自然科学によりウェイトを置き、彼が、人間の文化にウェイトを置いていて、専門の範囲にずれがあったからだと思う。けんかすると、そのあとできっと森本は大福もちを持って現れました。黙ってそれを差し出し、二人でむしゃむしゃ食べているうちに、なんとなく仲直りしましたよ。」

浅田芳郎と森本六爾のエピソード

「森本が評価されだすと”われこそは、森本の弟子”という人がずいぶん多いようだけど、みんなずるいですね。私の知る限り、一番の弟子は浅田芳郎君だった。浅田君は森本に心酔しているため、歩き方から、物の言い方まで似てしまっていた。私が初めて浅田君に会ったのは、昭和五年の夏で、足音と声だけを聞き、森本と間違えたことがあります。浅田君はそれを覚えていて、その時のことを文章に書いたことがありますよ。」

浅田氏の森本氏と訣別した真相についてのエピソード

「浅田君は、早稲田大学を出て、文学部の西村真次先生(民族学者)の下で助手をしていました。西村先生はなぜか森本がきらいでした。森本は、傍若無人であくの強いところがあり、かなり鼻つまみものになっていたからでしょう。西村先生は、森本との交際を禁じました。しかし浅田君のところに相変わらず森本がたずねて行き、それで、西村先生は「森本と付き合うのなら、学校をやめてしまえ」といって、彼をおっぽり出したとか聞いています。それが事実かどうかもう一つはっきりしませんが、私が明石で骨を発見する前の年、浅田君は早稲田を去りました。森本に原因があったといわれています。浅田君は、それほどに森本に傾倒していました。」

森本六爾はなぜフランスに留学したか

「森本が私にフランスに行きたいと言ったのは、その二、三年前でした。夏のカンカン照りの仲を二人で、今の桜井市の初瀬から大野まで歩いたことがあります。私は当時、近畿の縄文土器に興味をもっており、それを探していたわけですが、森本が「おれも行く」というので二人で、暑い中をぶらぶら歩いたのです。森本はあのとき、コウモリがさを日がさにしていて、それですれ違う人たちが珍しそうにながめていたのを記憶しています。

「おい、直良、おれは洋行しようと思う。フランスに行きたい」というのです。日本では考古学では食えない。だから生活の糧を得るために、英語の先生でもなろうかと思う。というのです。「フランスじゃあ、英語の先生になれないじゃないか」というと「どごだって構わない、洋行しただけで箔がつく」といいました。そのころから、森本は、どうも気になるせきをしており、「お前、胸をやられているのと違うか。無理をしない方がいい。日本にいたって、健康なら食っていける方法はある」と強く止めました。しかし、それ以後、私にはその洋行の話はしませんでした。」

直良信夫からみた晩年の森本六爾

「死ぬ前になると、どういうことでょうかね、旧知の人間からどんどん遠ざかっていき、白面の青年ばかり近辺に集めて、グループを組んでました。自ら求めて孤立し、ますます戦闘的な性格になったようでした。死ぬ一、二年前には、彼との行き来も少なくなりました。」

 

森本六爾について書かれた文献の目録

50音順となっております。青字の文献が当ホームページで紹介させていただいたものです。

赤星直忠 1936 「森本六爾氏の訃に接して」『考古学』7巻4号・

浅田芳朗 1966 「森本六爾の追億」『考古学ジャーナル』2号・

浅田芳朗 1967 「森本さんの回想」『天守閣の古鐘』原始文化研究会・

浅田芳朗 1969 「得能山古墳と森本さん」『須磨ところどころ』,郷土文化協会・

浅田芳朗 1970 「森本さんの埴輸研究」『郷土文化』第10集・

浅田芳朗 1977 「覚書」『形象埴輪発見地名表』上,郷土文化会・

浅田芳朗 1979 「森本さんとの惜別」『考古学ジャーナル』168号・

浅田芳朗 1981 『考古学の殉教者−森本六爾の人と学績』柏書房・

乾 健治 1968 「考古学者一森本六爾の生涯」『大和史学』4巻1号・

(会報) 1940「ひとりあるかの子−故森本六爾氏迫慕の栞」『考古学』11巻5号・

梶本三雄 1968 「森本六爾先生の思い出」『大和史学』4巻1号・

榧本亀次郎1936 「あの頃この頃」『考古学』7巻4号・

木代修一 1976 『ある歴史家の手帳』pp18−20,雄山閣・

喜田貞吉 1936 「森本六爾君の追憶」『考古学』7巻4号・

小林行雄編1936 「ひととせの記」『考古学』7巻1・2号・

小林行雄 1966 「恋の座」『サンケイ新聞』1966年3月3日夕刊・

小林行雄 1973 「山内清男と森本六爾」『日本の歴史』月報1、小学館・

小林行雄 1977「私の会った人−考古学一路」『朝日新聞』1977年1月22日号(小林行雄『考古学一路−小林行雄博士著作目録』平凡社,1983年に再録,pp76−78)・

小林行雄 1983「わが心の自叙伝」1〜12,『神戸新聞』1982年1月10日〜3月28日(小林行雄『考古学一路』前掲,再録,pp53−57)・

斎藤 忠編1985 『森本六爾集』(『日本考古学選集』23,築地書館)・

斎藤 忠 1985 「森本六爾」『考古学史の人びと』第一書房・

坂詰秀一 1987 「在野に生きた二人の学者」『読売新聞』1987年12月10日東京版,タ刊・

島本 一 1936 「森本六爾氏を憶ふ」『大和志」3巻2号・

下村宗逸 1968 「教師としての森本六爾君」『大和史学』4巻1号・

末永雅雄 1936 「森本君を悼む」『大和志』3巻2号・

末永雅雄 1936 「森本君に」『考古学』7巻3号・

杉原荘介 1936 「森本六爾氏の病床に侍して」『考古学』7巻7号・

高田十郎 1936 「最後に会った森本六爾君」『大和志』3巻3号・

高橋 徹  1977 『明石原人の発見一聞き書き直良信夫伝』朝日新聞社,pp54−62.

田村吉永 1936 「森本六爾君を憶ふ」『大和志』3巻2号・

都出比呂志1970 「森本六爾論一いわゆる東京考古学会グループの評価(報告の意図)」『考古学研究』16巻4号

都出比呂志1997 「森本六爾論」『弥生文化の研究』(第10巻 研究のあゆみ,雄山閣)

坪井良平 1936 「弔辞」『考古学』7巻1・2号・

坪井良平 1936 「森本六爾君略伝」『考古学』7巻3号・

坪井良平 1936 「森本君と私」『考古学』7巻3号・

坪井良平 1965 「森本六爾の結婚」『若木考古』74号・

坪井良平 1977 『佚亡鐘銘図鑑』青燈書房,pp152−55・

坪井良平 1983 『わが心の自叙伝』のしぎく文庫,ppl0−6.

坪井清足 1986 「古文化にこ魅ぜられて」『古代追跡−ある考古学徒の回想』草風館,pp17−34・

直良信夫 1942 「考古愁想」『古代文化』13巻11号・

直良信夫 1981 『学問への情熱』佼成出版社,pp170,181.

中谷治宇二郎1936 「巴里と森本君と私」『考古学』7巻3号・

中西道行 1936「考古学の相貌(5)一私の森本六爾一」『クロッカス』6号・

浜田青陵 1936 「森本君を億う」『考古学』7巻3号・

春成秀爾 1987 「解説」『日本の古墳墓』(森本六爾著・春成秀爾編)木耳社・

樋口清之 1936 「しぬびくさ」『大和志』3巻2号・

肥後和男 1936 「森本君の学間に就て」『考古学』7巻3号・

平山隆子 1968 「ちぎれ雲」『大和史学』4巻1号・

藤森栄一 1938 「私の見た弥生式土器聚成図録の生立ち」(前編)『考古学』9巻10号・

藤森栄一 1940 「私の見た弥生式土器聚成図録の生立ち」(続編)『考古学』11巻5号・

藤森栄一 1946 『かもしかみち』あしかび書房(『藤森栄一全集』第1巻,学生社)・

藤森栄一 1967 『二粒の籾』河出書房(『森本六爾伝』と改題,河出書房,1973年・『藤森栄一全集』第5巻,学生社,1979年に再録)・

藤森栄一 1967 『かもしかみち以後』学生社(『藤森栄一全集』第1巻,前掲に再録)・

藤森栄一 1971 『心の灯一考古学への情熱』筑摩書房(『藤森栄一全集』第2巻,学生社,1980年に再録)・

藤森栄一 1974 『考古学・考古学者』学生社・

堀井甚一郎1936 「森本六爾君を憶ふ」『大和志』3巻2号・

堀井甚一郎1968 「少年時代からの親友森本六爾氏を偲ぶ」『大和史学』4巻1号

松本清張 1954「風雪断碑」『別冊・文芸春秋』(『或る「小倉日記」伝』角川書店,1958年,所収)・

松本清張 1961 「わが小説一『断碑』」『朝日新聞』1961年11月17日,東京12版・

丸茂武重 1980 「東京考古学会創立と森本六爾」『考古学ジャーナル』174号・

三輪善之助1936 「森本六爾氏の長逝を悼む」『考古学』7巻3号・

森田湖月 1936 「思ひ出すこと」『大和志』3巻2号・

森本一三男1936 「哀悼の記」『考古学』7巻3号・

森本一三男1968 「回想の記」『大和史学』4巻1号・

 

出典 都出比呂志「森本六爾論」『弥生文化の研究』(第10巻 研究のあゆみ,雄山閣,1997年第二版による)